2014年御翼12月号その1

災害を災難ではなく、試練と受け止める

  

 東日本大震災以降、三浦綾子の著書は多いものでそれまでの4倍も増刷され、より多くの人に読まれるようになり、再び注目されている。苦難に立ち向かう時にこそ読んで欲しいと、三浦綾子読書会では綾子さんの作品を被災地へ届ける活動をしている。結核で13年間の療養生活を送り、闘病中に洗礼を受けた綾子さんだからこそ、人の苦難を良く知っており、その作品は「苦難に立ち向かう希望の文学」となっている。『泥流地帯』(大正十五年に十勝岳が噴火し、貧しくも誠実に生きて来た家族が被災する―死者・行方不明者144名)は、綾子さんが何度も現地に取材に行き、事実関係を調査し、実話に基づいた小説となっている。その中で綾子さんは登場人物にこう言わせている。

「苦難に会った時にそれを災難だと思って歎(なげ)くか
 試練だと思って奮い立つかその受け止め方が大事なのではないでしょうか」と。

東日本大震災で被災した人たちにとって、生きる希望を与える作品を綾子さんは遺している。そして、クリスチャン医師の日野原重明先生は、『3・11後を生きる「いのち」の使命』(日本キリスト教団出版局)の中で以下のように記しておられる。

いのちの使命 
 今回の震災では生きること、死ぬことがはっきり二分されてしまいました。残された人と死んだ人と、二つに別れた事実に対してそれをどう解釈するか、そのことを私なりに考えてきました。特に生き残った人、そのことを負い目として感じている人に伝えたいのです。あなたの人生には(生き残った者としての)使命がありますよ、と。
 キリスト教の信仰では、すべてのいのちは神様がお造りになったと考えます。すべてのいのちは自分のものではない、与えられたものなのです。だから、与えられたものとして大切に生きていかなければならないのです。もちろんそれは、…今回のように震災で、また病気で、交通事故で、人のいのちが突然奪われることがあります。
 しかしだからと言って、いのちに意味や使命などないのだ、人のいのちは陽炎(かげろう)のようにはかないのだと思い違いをしてはいけないと思うのです。むしろいのちが突然失われることがあるからこそ、生き残った人には亡くなった人のいのちと人生に意味を見つけ、自分に与えられたいのち、残されたいのちを十分に生ききる使命があると思うのです。
 残された者がそういう意志をもって生きる、復興への努力を重ねる、そのことがまた、亡くなった人のいのちを意味あるものにするのではないかと思います。「一粒の麦」(ヨハネ12・24)とはまさにそのことです。麦の種は土に落ちて一旦は死んだように見えますが、そこから新しい芽が出てきて実を結びます。もし私たち生き残った者がこのことを信じて、亡くなった者のいのちと人生が一粒の麦であり、意味のあるものだったということを信じて、残された者としての使命に生きるなら、それによって死んでいった者のいのちは贖われるのではないでしょうか。いのちが贖われるとは、死んでいった者のいのちに意味が与えられるということです。

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